アフガニスタンのひみつの学校
ほんとうにあったおはなし
作 ジャネット・ウィンター 訳 福本友美子
この子は、わたしのまごむすめナスリーンです。
わたしたちは、アフガニスタンのヘラートという古い町にすんでいます。
ここはむかし、芸術や音楽や学問がさかんな町でした。
ところがある日、兵士たちがやってきて、なにもかもかわってしまいました。
かわいそうに、ナスリーンは一日じゅう家にいました。
女の子は学校に行ってはいけないからです。
むかしは、ナスリーンのママも、わたしも、学校にかよえたの、この国を支配するようになったタリバンの兵士たちは、女の子は世界のことなど知らなくていい、というのです。
あるばん、わたしの家に兵士たちがやってきて、いきなり、わたしのむすこをつれていきました。
ナスリーンのママは、とうとうがまんできずに、夫をさがしに出かけました。
女の人は、おとなでも子どもでも、ひとりで町へ出てはいけないのに。
マララとイクバル
パキスタンのゆうかんな子どもたち
ジャネット・ウィンター さく
道傅愛子 やく
「マララは、どいつだ?」
タリバンの兵士がスクールバスをのぞきこみながらいいました。
マララは、勇気のある女の子でした。
「わたしには、教育をうけるけんりがあります」
「あそぶけんりも」
「うたうけんりも」
「はなすけんりも」
「いちばへいくけんりも」
「声をあげるけんりも」
マララは、声をあげることはやめません。
マララ・ユスフザイ
1997-
マララは、パキスタン、スワート渓谷のミンゴラという小さな町で生まれた。
両親とふたりの弟がいる。
父親が始めた学校に通い、よい成績をおさめた。
武装勢力のタリバンが、スワート渓谷に侵攻し、女子が学校に通うことを禁じた。
マララはまだ11歳のとき、初めて公の場で女子教育の重要性を話した。
タリバンの勢力が増しても、マララは声をあげ続けた。
脅迫は続いたが、マララは決してやめなかった。
タリバンの兵士が下校途中の彼女を銃撃するまで—。
銃弾は頭と首をかすめ、肩に達した。
マララは、複数の病院で治療を受け、最終的にイギリスのバーミンガムにあるクイーン・エリザベス病院に運ばれた。
いまは、バーミンガムで家族と暮らしている。
12ドル!
お父さんとお母さんの12ドルのしゃっきんをかえすために、4さいのイクバルは、じゅうたん工場ではたらかなくてはならなくなった。
12ドルのために、ひとりの男の子がじゆうをうしなったのです。
イクバルは、くらい工場にひきずられていきました。
ひとつしかないまどには、てつごうしがはめられています。
イクバルは、くさりでつながれました。
にげられないように。
たくさんの子どもたちがつながれ、くらく、むしあついなかで、じゅうたんを おりつづけていました。
イクバル・マシー
1982-1995
イクバル・マシーは、パキスタンの近くのムリドゥケ村で生まれた。
まだ4歳のとき、貧しい両親は、絨毯工場長から12ドルの借金をした。
その返済のため、イクバルは責務労働者となった。
毎日、鎖につながれ、絨毯を織った。
日に20セントの賃金だった。
10歳のとき、イクバルは、債務労働解放戦線により自由になった。
自由を得ると、イクバルは勇敢にも児童労働に対し声をあげ始めた。
イクバルは、法律を勉強したかった。
パキスタンでは、イクバルは絨毯業界から脅迫を受けていた。
ふたりのいとこと村で自転車に乗っていた1995年4月16日、イクバルは銃で撃たれて亡くなった。
12歳だった。
わたしたちの家が火事です
地球を救おうとよびかけるグレタ・トゥーンべリ
ジャネット・ウインター
福本友美子 訳
グレタは、スウェーデンの首都ストックホルムで
しずかにくらす、おとなしい女の子です。
犬のロクシーが友だちでした。
「わたしは今までだれの目にもとまらず・・・
スイスのダボスでひらかれた世界経済フォーラムでも、
このおとなしい女の子は、世界のえらい人たちのまえでスピーチをしました。
こんどもまた、話さなければならない、と思ったのです。
「わたしはあなたがたに
希望をもってほしくありません。
もっとあわててもらいたいのです。
毎日わたしが感じている
おそれを感じてほしい・・・。
じぶんの家が火事だったら
することをしてください。
だってほんとうに火事なんですから」