みんなの絵本 大っきい子の絵本

心がいっぱい やしまたろう絵本

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からすたろう

やしま たろう 文・絵

おかしな 男の子は、先生を こわがって、なにひとつ おぼえる ことが できません。

—クラスの 子どもたちとも ちっとも ともだちに なりませんでした。

そして ちびは、たいていの 子が だいきらいな ムカデや イモムシを
つかまえて、じっと ながめたりすることが できました。

しかし、「とんま」で あろうが なかろうが くる日も くる日も
ちびは、とぼとぼと、がっこうに やってきました。
いつも きまって、なっぱで くるんだ にぎりめしの べんとうを もってきました。

・・・・・

がくげい会の ぶたいに、ちびが あらわれた。

いそべ先生が、ちびが からすの なきまねを するのだと
みんなは、「なきごえだって?」
「からすの なきごえだとよ!」と、口ぐちに いいました。

「烏のなきごえ」

・・・・・

胸がいっぱいになった(*´ω`*)

村の樹

やしま たろう 文・絵

村のまん中に ゆたかな水が ながれる 川が あり、
川岸に 大きな樹が 立っていました。

葉っぱのところには たくさんの虫が いました。
枝では いろんな遊びを することが できました。

ある枝は シーソーとなり、平均台と なりました。

ある枝は 椅子になり、べつの枝には 家を つくりました。

樹の上で 食べたものは、何でもみな とても おいしいのでした。

・・・・・

きっと今でも あの樹は あの川岸に
立っているのでしょう。

ぼくには 大ぜいの 子どもたちの
声が きこえてくるようです。

あまがさ

やしま たろう 文・絵

モモは、
三つの たんじょうびに、
二つの おくりものを もらいました。
—あかい ながぐつと あまがさです!

・・・・・

おひさまが まいにち
ぎらぎら てっていました。

つぎのあさも、
モモは ふきげんでした。

いくにちも
いくにちもたった
あるあさ、

コンクリートの みちは

あめの しずくが、
ダンスをしている こびとのように、
そこらじゅう はねまわっていました。

あまがさの うえでは、
あめが、
きいたこともない
ふしぎな おんがくを かなでていました。

ぼんぽろ
ぼんぽろ
ぽんぽろ ぽんぽろ
ぽんぽろ ぽんぽろ
ぼろぼろ ぽんぽろ
ぼろぼろ ぽんぽろ
ぼとぼと ぽんぽろ
ぼとぼと ぽんぽろ

道草いっぱい

文・絵 八島太郎・光
  訳 マコ岩松

授業が終わると、私たちは学校からかけ出しました。
というのは、帰り道に、たくさんのものが、私たちをまちうけていたからです。

・・・・・

お菓子屋さんのおばさんは、あめをつくっていました。
から芋のかたまりが、おおきな縄から細長い紐になり、そして何千もの小さなあめになるところを見るのは、たのしみでした。

年とった親方と若い弟子たちが、はたらいている畳やさんがありました。
親方が刃のひろい包丁で、畳のはしを切るときは、「ザクッザクッザクッ」と、音がしました。

家につくことは、いつも夕食の前でした。
私たちは帰り道で、大人になるためのさまざまなことを学ぶことができました。

モモのこねこ

やしま たろう・やしま みつ 作
やしま たろう 絵

ある日のごご、
ちかくのマーケットからの かえり、モモは みちばたの ゼラニウムの しげみのかげに、
1ぴきの みすぼらしい こねこを みつけました。

「パパの おゆるしがあったら、そのねこ、かっても いいわよ」
と、ママが いいました。
モモは、パパの おゆるしがないときは、ないてしまおうと おもっていました。

・・・・・

ある、あきの日の あさはやく、
ニャンニャンは おかあさんになりました。

あるものは、むしや はえを おいかけるのが すきで、
あるものは、じぶんのしっぽを おっかけました。

・・・・・

1ねんまえには、とても みすぼらしかった こねこは、
いまでは せかいじゅうで いちばん うつくしいねこに なっていました。

海浜物語(かいひん ものがたり)

文・絵 やしま たろう

日本の南のはしの島に、遠くはなれて、都会の物音がまったくとどかない海浜がありました。

キャンプにやってきた、彼らに、なじみぶかい浦島太郎の話を思い出させました。

あるとき、ひとりの漁師が傷ついた亀の命を助けてやったところから、物語は始まりました。

砂丘の子どもたちは、その物語について、まだ話しあっています。

「浦島はいい人じゃなかったの?」ひとりが言いました。

「だけど、なぜ家がなくなったのよ?」とつぜん、だまっていた子が口をひらきました。

「だけど、きれいな箱からは、何かもっといいものが出てこなくちゃ」

・・・・・

子どもたちをあたためていた太陽は、もう水平線の上にあって、おしまいの光を、子どもたちの上にやすめていました。

『あたらしい太陽』と 『 水平線はまねく』

あたらしい太陽

八島太郎

その日から、九月十日へとかけて、
防空演習はしだいに頻繁となり、
監房は黒幕をもって
徹宵覆われるようになった。

そしていく度となく、
妻が猛烈な、呻き声をたてるのを耳にした。
しかし黒布は彼女の窓を見ることさえ
許さないのであった。

水平線はまねく

八島太郎

そして、ある日、
私は、その出征さえもしらなかった
旧師磯部先生戦死の報をうけとった。

後年の先生は、
児童情操教育の
全国的指導者の一人であった。

天童の心にひそむ苦しみをのぞくためならば、
先生は、
どんなに遠いところまでもでかけていった。

「せっかくきづいた才能を、
世の中がつぶしてしまう」
これが、
私の記憶にある先生の最後のことばである。

絵本は八島太郎自身の子どものころの伸び伸びした体験
そして、自身の子どもを描いた心温まるものです

分厚い単行本『あたらしい太陽』と、続編の『水平線はまねく』も 八島太郎 自身の体験だが、
昭和初期の複雑な社会
自身と妻の監獄での苦悩
第二次世界大戦前からの戦争の悲痛が、
全てのページに線描画と短い言葉が添えられ
一冊約300ページを一気に読み上げてしまうことができる

激動の昭和の始まりを、力強い絵画と言葉で見て取れ、引き込まれます

八島太郎(本名・若松 淳)

1908年、鹿児島県に生まれる。
軍事教練を拒否して東京美術学校から退学処分をうける。
日本プロレタリア美術家同盟に参加し、何度も検挙される。
このころプロレタリア美術研究所で赤羽末吉にデッサンを指導。
小林多喜二が虐殺されたとき、多喜二宅でデスマスクを描く。
同じプロレタリア美術家同盟の新井光子と結婚し、1939年夫婦で渡米。
米国に亡命していたグロッスに認められ、日本向けの反戦ビラ・パンフなどを描き、米国で反戦活動をする。
戦後、日本での体験に基づいた絵本『村の樹』『道草いっぱい』『からすたろう』『あまがさ』『海浜物語』などを発表。
後者3点の絵本はコルデコット賞(アメリカの絵本に与えられる最高の賞)の次席となる。
『からすたろう』は1979年絵本にっぽん賞特別賞をうける。
1994年カリフォルニア州ガーデナで逝去。
1995~96年、鹿児島、長野、東京で八島太郎遺作展が開かれる。
(村の樹より)

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