平山邦夫のお釈迦さまの生涯
お釈迦さまの誕生
今のインドとネパールの国境をまたいでひろがる地域に、釈迦族がおさめる小さな王族が栄えていました。
王さまの名前はシュッドーダナ。
お妃さまの名前はマーヤといいました。
やがて、マーヤ王妃に男の赤ちゃんが生まれました。
大喜びの王さまは、その子にシュダルタと名づけました。
シュダルタとは「望みのかなえられるもの」という意味です。
今から、およそ2500年ほど昔の4月8日のことでした。
この男の子が、後にお釈迦さまになられるのです。
悲しいことに、シュダルタが生まれて七日めに、お母さまのマーヤ王妃は亡くなってしまいました。
シュダルタは小さいころから、物ごとを深く考える、とてもやさしい子どもでした。
老人との出会い
「あれはなんだ。人間のように見えるが、あんなにまっ白な髪の毛は見たことがない。
歯はないし、肌はしわだらけだ。あれは、いったいなんなのだ」
「王子さま、あれは老人です。
なにも驚くことはありません。これは、ごくあたりまえのことなのです。
わたしたちはみんな年をとるのです」
そして。またある日、
そまつな衣をまとい、鉢を手にした男が、はだしで立っていました。
朝日をうけたその顔は、おだやかで、こころ静かに楽しい思いにひたっているかのようでした。
「あれは誰だ。」
「王子さま。あれは修行僧です。
修行僧は洞窟や森の中に住み、日に一度つつましい食事をとり、質素な生活を送っています。
おこないとこころが清らかになるように努め、修行によって世の中の苦しみからすくわれる方法を探しもとめているのです」
「そうだ、わたしがもとめていたのは このことだった。
うわべだけの快楽にあけくれた生活を捨て、わたしも修行に出よう」
お城を捨てて
王子は、そっと城をぬけ出しました。
当時、悟りを得るには、瞑想によるものと、苦行をつむ方法が知られていました。
そのころインドには、アーラーラ仙人について修行をしました。
シッダルタはとりわけ理解が早く、まもなくアーラーラ仙人は「もうこれ以上教えることはない」とシッダルタにつげました。
苦しい修行
食事は一日に一食、二日に一食、三日に一食とだんだんにへらし、木の実、草の根などを食べてすごしました。
健康だったシッダルタのたくましいからだはやせ衰え、皮膚はしわだらけになり、目は落ちくぼみ、日に日にからだは弱っていきました。
苦しい修行をつづけるうちに、いつしか六年の年月がたちました。
しかし、ある日シッダルタはこれ以上苦行をつづけても、むだなことに気づきました。
菩提樹(ぼだいじゅ)の下で
苦行を捨てたシッダルタは、六年間のあかやよごれを落とそうと、尼連禅河でからだを清めました。
ちょうど、そこへ通りかかった村長の娘スジャータは、シッダルタを家にはこび、しぼりたての牛乳で煮たお粥を、シッダルタのためにつくりました。
シッダルタは、このお粥で元気をとりもどしました。
やがて、ブッダガヤと呼ばれるところにある大きな菩提樹の下まできたとき、なぜか、ここが自分にとって特別な場所だと感じました。
シッダルタは、
「悟りをひらくまで、ここを動くまい」と、かたくこころに決め、その樹の下に座りました。
シッダルタはすみきったこころで深い深い瞑想をつづけました。
そして、暁(あ)け明星(みょうじょう)がきらめくある寒い朝、ついに悟りをひらきました。
シッダルタはブッダとなられたのです。
シッダルタ35歳のときのことでした。
鹿野苑(ろくやおん)の教え
ブッダとなられたシッダルタは、お釈迦さまと呼ばれるようになりました。
お釈迦さまは、自分の悟った真理を人びとに伝えようと旅立ちました。
お釈迦さま五人の弟子とともに、教えをひろめる旅をつづけました。
新しい教え
当時インドでは、バラモンが祭りや占いですべてのことを決め、政治や社会を支配していました。
そして、自分たちのバラモンの下クシャトリアという王族や武士階級、ヴァイシャという農牧民や商人、スードラという奴隷階級をつくって、人びとを差別しました。
この制度はカーストと呼ばれ、人は生まれてから死ぬまで、決して自分の階級からぬけだすことはできませんでした。
お釈迦さまはおっしゃいました。
「人は、高いカーストに生まれたからといって、尊くはありません。また、低いカーストに生まれたからといって、いやしいことはありません」
そして「おこないの正しい人が尊く、おこないの正しくない人はいやしい」と、おさとしになりました。
お釈迦さまの教えはどんどんひろまり、弟子はまたたくまにふえていきました。
カラシの種を探して
裕福な家庭の娘キサーゴータミーは、金持ちの商人と結婚し、かわいい男の子が生まれました。
なに不自由なく、幸せに暮らしていましたが、その子が一歳のとき、病気で死んでしまいました。
悲しみにくれたキサーゴータミーは、子どもを生きかえらせる薬を探しもとめて、町をさまよい歩きました。
誰にも助けてもらえず、キサーゴータミーは、最後にお釈迦さまをたずねました。
「キサーゴータミーよ。
あなたの悲しみをいやす方法が、ひとつだけあります。町に行って、まだ葬式を出したことのない家を探し、カラシの種を一粒もらってきなさい」
あの家、この家
つぎの家でも、
「うちでは、数えきれないほどの人が死んでいます」をいわれました。
この悲しい現実を、すなおにうけいれたキサーゴータミーは、子どもの亡きがらを墓にほうむると、お釈迦さまのもとにもどり、お釈迦さまの弟子となりました。
お釈迦さまの死
お釈迦さまは45年もの間、人びとに教えを説いて歩かれました。
しかし、八十歳をすぎたころ、病気になられ、もう死ぬときがきたことを悟られました。
季節でもないのみ沙羅双樹の花が咲き、お釈迦さまを慕う人びとだけでなく、うさぎやねずみ、りすや象、牛も馬も羊も、沙羅双樹の林にあつまってきました。
「すべての愛するものたちも、いつかはかならず別れの日がくるのだ。わたしの亡き後、わたしに会いたいと思ったら、わたしの生まれた美しい花園、ルンビニーを思い出しておくれ。
わたしはいつでもそこにいて、わたしに会いたいと思う人びとの、こころの中に現れるだろう」
お釈迦さま80歳の2月15日、満月の夜でした、
2500年以上たった今も、お釈迦さまの教えは、深く深く人びとのこころの中に生きつづけているのです。